2012年3月11日日曜日

はじまりのご挨拶とマウンテンバイクよもやま話(その1)

始まりは肝心。。。といいますが、ふと思いつきでBlog始めてみようか、という今日。
特に何か!という事はないので、軽く自己紹介とマウンテンバイクにまつわるエトセトラのお話をします。
 
papaHiro
197x年生まれ、アラフォー。3児のぱぱ
神奈川は茅ヶ崎在住、湘南はかれこれ10年になるかな。
辻堂→藤沢→茅ヶ崎と移り住んで、茅ヶ崎に完全に腰を落ち着かせてしまいました。
茅ヶ崎、Loveです。

趣味は自転車、サーフィン。そしてDJ(こちらはお金もらってたから、プロか)

自転車にいたっては、中学生の頃から。友達のアラヤのMuddyFox、まだSTIもなかった(サムシフターのSISだよ、って判る人、もう殆どいないよね?)頃に借りて乗って衝撃を受け、親のすねをカジリまくってなぜかRaleigh USA(TECHNIUMのフレームだね)を買ってくれたのがはまるキッカケ。

当時のRaleigh USAはJohn Tomac加入前(まだYETI/7-11にいた頃、多分、Mongooseの頃は僕はオンタイムでなかったような気がする)。その後Johnny TはRaleighに移籍したんだけど、それは余談かな?

その友達(またまた余談だけど、彼はいまや都内を代表する有名ショップのKOFU(注:間違えじゃないよ、現KOOWHO)のスタッフだった事もある、中学のクラスメイト)のお父様に山に連れて行ってもらったり、地元千葉のタキサイクル(ユーカリが丘にあったよね)に出入りして、お店のツアーや、お客さん同士の車に便乗したりして、どんどんズブズブとハマっていくこととなる。

タキサイクルを紹介してくださったのは、コミネさんという方だった。この出会いがなければ楽しみ方を知ることに時間が掛かっていたかもしれない。改めて感謝。
コミネさんは、僕が雨の中、マウンテンバイクに乗っている時に道で声をかけてくれた。確かFisherにのられていた記憶がある。当時はそれくらい、まだ珍しい存在だった。ママチャリ替わりに使うなんて有り得ない、そんな時代だっただけに、雨の中、マウンテンで疾走していたのが目についたんだろうね(笑)

そのころ、印旛郡の本埜村の役場の前の松虫の”空き地”は良く行ったねー。いまや住宅になってしまったけど。あの頃のフィールドはほとんど住宅になってしまったかなぁ。
”松虫”以外にも当時は千葉はダートのフィールドに溢れていた。「里山」なんて言葉がまだ使われていない頃、僕らは里山に入り込んでシングルトラックを開拓したりしていた。先日、ふと思い出して見に行ったが、ことごとく住宅になっていて、ショックだったなー。

そんなフィールド(当時はトレイルなんて言わなかった)でリアブレーキをロックさせて「オオタケー!」というのは当時のMTB少年の間の定番だった(注:今や秦野でMTBショップやっている大竹さんの得意技?がドリフトでコーナリングだった)。

そう、クランクは175mmなんだよ!ってのも、当時のシマノのオオタケさんのサイスポでの発言から来ていると思う。以降BMX以外は基本175mmクランクだ。

いまやダムの底だけど、宮ケ瀬MTBパークに行ったのも貴重な経験だった。

その時はテレビ取材が来ていて(いや、マウンテンバイクを取り巻く環境は当時そのレベルだった)なぜか「MTB相撲」なる競技?(遊び)に出て、 テレビに出たのはここだけの話。そのテレビが夕方6時からのニュースの1コーナーだったのは今考えるとすごい時代だったんだと思う。

やや余談だけど、確かこの年までマウンテンの全日本は宮ケ瀬MTBパーク(という名のダム工事現場)でXCは一発勝負だったと思う。まだJMA主催でJCFでなかった。ウィンクジミック(SPECIALIZD)やマイケル・トロイ・ジャクソン(cannondale)、いまやCove Japanの代表のポールチェットウィンド(当時、ロッキーマウンテン)が強くて、っておぼろげに記憶している。遠い過去のようで近いようで・・・

ただ言えること、それはそれくらい記憶に残る程、当時サイスポを読み更けていた事。
当時の情報はサイスポ(まだバイクラは追いついていなかった)とショップに入ってくる
、商売ネタとはいえ新鮮な情報のみだった。

僕が始めた頃はサスなんてなかった。ちょうどACCUTRAXフォークが流行ってA-TACステムが大人気。そう、ストレートフォークが出始めた頃だった(この流れがロードに行って、コルナゴあたりがストレートフォークのロードをだしていたよね)。

まだMANITOUはAnswerの傘下ではなく、きったねーMANITOUの完成車が信じられない価格(100万)だった頃の話だね。

いまでも憶えているのが、タンゲがスイッチブレードフォーク を発売したときの開発者のインタビューで「シンプルなのがベストであって、サスペンションフォークはいずれなくなる」みたいな発言をしていた。まさか自分の会社が撤退することになるとは当時思わなかっただろうに。しかし、当時のサスペンションフォークが置かれる環境はそういう時代だったのも事実だ(初代ROCK SHOXなんて笑っちゃう性能だもんね)。

いやーしかし、このころの写真が実は一枚もない・・・惜しい事をしたと思う。マウンテンバイクが牧歌的な頃の貴重な資料だっただけに、自分の歴史だっただけに、なんて惜しいことをしたのかと。

そんな楽しいマウンテンバイクライフ、衝撃的だったのが地元:千葉でも本格的なレースが開催された事だった。それが宮田工業が主催していた「リッジランナーカップ」だ。当時は全国で開催していて、それを千葉の千葉北インターのすぐそばでやったのだ。

もはや場所の記憶もGoogleMapで探せない程だけど、初めてでたレースがこれだった。

場所の記憶はないけど、当時、レースで血走った脳で、コースの様子は鮮明に覚えている。

あのころは、もうそれしか考えていなかった、そんな時代が僕の中学〜高校の頃だった。週末は狂わしい程ヒタスラのって、ヒタスラ買いもしないのにショップに入り浸り。

高校で他高とのボーリングコンパで、向こうからコクられても(やや自慢)、チ●コの先はあくまで自転車にしか接していなかった。。。そんな時代だった

勝手にリンクで申し訳ないですが、この方と実は結構被っている気がする。。。
http://ameblo.jp/rockstar-haro/entry-10899859783.html
当時のよもやま話はこれくらいにしておこう、止まらなくなりそうだから。

その2でまた書こうかなー

2 件のコメント:

  1. こちらで始めたんだね!!
    初回からハイペースだね。
    こんな濃い内容、自分なら5回分だわw
    どこもコメントしたいところだらけだ!
    今トレイルでオオタケコーナーなんてやったら
    袋叩きだろうな(爆)懐かしい時代だ。

    次のエントリーはドリームファクトリーか?!
    楽しみにしています!!

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    1. ドリームファクトリー、懐かしいね!

      いやさ、この間、家掃除していたら奥からJohnnyTのサインが出てきたよ。で、なんとなくこういうの、ネタにしてBlog書いてみようかなって。

      オオタケコーナーやったらガイドにぶっ殺されるね。いまトレイル乗るとき、ロックだけはさせないようにするからね。

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